この記事は沖縄の離島西表島でアクティビティーツアーショップを経営しながら双子の子育てに奮闘する家族の記録を残した物です。西表島に移住を考えてる方や、子育てに悩みを抱えている方に何かヒントになる良い情報を提供出来たらと思います。今回は滋賀で短期バイトの仕事をした時のエピソードです。

派遣の工場で働く闇

人の出入りが激しい工場では毎日新しい人が仕事場にやってくる。中にはいろんな工場をたらい回しにされて飛ばされてくる人もいる。僕は第3工場にいたが派遣の中にも社員さんと派遣のリーダーがいていつも新しく入ってくる人の指導や、使えなくて飛ばされてくる人の面倒を見るのに手を焼いて大変そうだった。

このまま長くいれば危うく僕もリーダーをやらされそうな雰囲気だったがその前に満期を迎えた。リーダーになっても時給は変わらないのだから恐ろしい話だ。

ある日いつものように少し遅れて新人さんと工場をたらい回しにされた人達が僕のいる工場にもやってきた。一丁前に教える立場になりつつあった僕は社員さんに(教えてあげて〜)とお願いされた。

一人はとても動きがスローな優しい感じのおばちゃんともう一人は60を過ぎた70歳手前くらいのおじちゃんでどこかビクビク怯えている感じで表情はとても暗い。

僕はおばちゃんに教えることになった。何度も何度も丁寧にコツを教えてあげたがやはりスローなおばちゃんなのでなかなか一人立ちは難しそうだ。

でも僕は教えるのがガイドの仕事をしているみたいで一番楽しかった。何とかおばちゃんに上達してもらって楽に仕事をしてもらいたいとそう思ったのだ。

しかし仕事が遅いおばちゃんはレギュラーと呼ばれるこの工場の番人達に目をつけられてしまった。その内の一人のおっちゃんが上半身を後ろに60°ほど傾けながらズカズカと歩いてきて僕にこう言った(あんなのはすぐに退場させなあかん!!!)

きびしい言葉だ‥僕はなんでや!と内心思いながらも(あっはい)と流した。その日以降そのおばちゃんはこの第3工場では一度も見ることはなかった。

もう一人の顔が暗いおじちゃんはその日はなんとか踏ん張っていた。でもやはりまだまだ動きがスローなのと不慣れなのでどんどん流れてくるダンボールがたまりクラッシュ寸前まで追い込まれる。その度に僕はすきを見ては助けに行った。

本当は一人でやらなければ行けない仕事なのだけど(慣れた人はそのレーンで掛け持ちをする)何とか今を堪えて慣れれば一人でもできるようになってくれるだろうと僕は思っていたからだ。

手伝いに行くとおじちゃんはいつも申し訳なさそうに会釈をしてくれた。しかし今度は一見人当たりが良さそうな顔の社員さんが僕にこう言った(君の性格なのかも知れないけど、あまり手伝ってはダメだよ一人でやらせないと、君がどんどん辛くなるよ)う〜んでも何だか腑に落ちない。

確かにここではその意見が正解なのかも知れない。どんなに仕事が出来ようがリーダーになろうが、全くできない人もサボっている人も時給は一緒なのだ。できる人に負担がいき過ぎてしまう。だからいつまでたってもできない奴は退場させろ!!みたいな空気になってしまうのだ。ゆっくり教育する余裕はないということらしい。

その気持ちもわからなくもない。でもこれは確実にこのシステムの問題だ。若い人でも仕事ができればどんどん時給をあげたり昇給させて希望を与えなければならない。

そうでなければ小子高齢化が進み人口が減り終身雇用や年金の引き上げなど多くの問題を抱える日本にとってこれは大きな闇となる。

言葉を悪く言うと仕事のできる若い人がご年配の人をカバーしなければならなくなってくる。それなのに自分と同じ給料かそれよりも多くもらっていたら、若者はきっとやる気をなくしてしまうだろう。

僕もだんだん老いを迎える人間としてこれは人こどではない。いつかは必ずパフォーマンスは落ちるのだから。これは深く向き合わなければならない問題だ。

それでもおじちゃんは頑張っていた。次の日もまた次の週もおじちゃんはいた。相変わらず朝の朝礼の時などは不安そうな顔をしていたが、僕はおじちゃんがやめずにいてくれたことが嬉しかった。

それからも僕はこっそり助けに行ったりしておじちゃんを応援していた。ここで働く人は少なからず何かしら事情を抱えながら仕事をしている。僕も訳あり物件の一人だ。だからこそ少しでも楽しく、楽に仕事をこなしやりがいを見出せれば‥と考えていた。僕は相変わらずの甘ちゃんだ。

このおじちゃんに僕は自分の父親とどこか重ねて見ていたのかも知れない。

休憩室で涙が溢れた

僕の親父は公務員だったが僕がまだ小学生の時に訳があって自主退職をした。その後病気がちだった親父は仕事は長く続かず、職を探したり仕事を辞めたりを繰り返していた。

仕事をしないで家にいる親父を僕は許せなかったし恥ずかしかった。仕事を辞めた時は文句を言ったこともあった。だが親父も家にいたくて家にいた訳じゃない、働きたくなくて働かなかった訳じゃない。

きっといろんな職場でも辛い思いをしてきたのだと思う。それなのに僕は病気を理解してあげることができなかった。どうしてもっと優しい言葉をかけてあげられなかったのだろうか。きっと家にいても仕事に行っていても辛かったはずだ。

ある時おじちゃんはそこそこ難しいレーンを何とか一人でこなしていた。手こずることもあるが、何とか手伝いに行かなくても踏ん張っていた。

その日の夕方の休憩の時に休憩終わりのおじちゃんがたまたま前から歩いてきたので(もう慣れました?)と声をかけた。その時おじちゃんは少し照れ臭そうに笑って(少し)と答えた。

話はそれだけで終わった。いつもどこかビクビク怯えていて暗い顔をしていたおじちゃんが初めて見せた笑顔だった。(何だこのおじちゃんもこんな顔で笑えるんだ)と思うとなぜが嬉しくて涙が出てきて僕は休憩室で缶コーヒーを飲みながら周りの人に気つがれないように涙を堪えるのに必死だった。

あ〜僕はこの笑顔を見るためにここで働いていたんだなぁと思った。その意味をおじちゃんに全てもらった。僕の仕事は人を笑顔に幸せにハッピーにすることだ。世の中にはいろんな人がいて色んな思いを抱えている。僕はきっとこの日のことを忘れることはないだろう。だからもし自分のツアーを選んできてくれた時にはできる限りの誠意を持って皆を迎えたいと思っている。

不器用で世間知らずの僕でもようやく親孝行ができそうだ。それは双子の孫を父にもうすぐ見せれるということだ。