この記事は沖縄の離島西表島でアクティビティーツアーショップを経営しながら双子の子育てに奮闘する家族の記録を残した物です。西表島に移住を考えてる方や、子育てに悩みを抱えている方に何かヒントになる良い情報を提供出来たらと思います。今回は滋賀で短期バイトの仕事をした時のエピソードです。

滋賀で働いたエピソード

滋賀に来てから急いで仕事を探しました。7月までに一旦西表島に戻るので、一ヶ月半ぐらい働ける都合の良い短期バイトはないかと新聞のチラシやネットなど使って片っ端から調べた。

その時の求人にマスク製作というのがあってまさにコロナ渦のなかにおいてタイムリーだなぁと思って飛びついた。しかも時給は1300〜1700円くらいで断トツに高い。求人の申し込みはなんとオンラインでできました。

ウェブサイトから申し込みをし、質問事項を入力し、動画の自撮りをして志望動機など話し送るという内容だ。わざわざ面接に行かなくても良いでのノリノリでやっていたの覚えています。

しかしいつになっても採用の連絡がこない・・不採用という連絡すらこない(世のため人のため感染を防ぐためマスク職人に俺はなる!!)と意気込んでいた物のあ〜これは落ちたな‥‥完全に舐めていた。ここでは沖縄の離島でガイドをしていたなんて肩書はなんの役にも立たない、むしろデメリットになりそうな気がする。

真っ黒く焼けた顔でノリノリで動画を撮ってた自分が恥ずかしい。あ〜あの動画はどうしたのだろうかまぁそんなことは今となってはどうでもいい話である。

なかなか良い仕事が見つからず焦りが見え始めていた。嫁さんの実家に居候しながらプー太郎生活をするなどメンタル的に耐えられないと思っていたからだ。

コロナでこの先ツアーができるかもわからない状況でもあったので少しでも足しにしなければという思いもあったがこの時は働かないで家にいるプレッシャーのほうが強かった。マスオさんがプー太郎じゃぁカツオも笑えない。

えぇい!!こうなれば仕事を選んでいる場合ではない。なんでも良いからすぐさま働ける仕事を見つけた。しかも短期OK。電話をしたら(じゃぁ明後日きます?)ぐらいののり。まさに誰でも良いからとりあえず来てくださいといった感じ。

まぁなにわともあれ今の僕の身分にとってはとてもありがたい話し。制服まで貸してくれるというのではないか。おまけにシフトも自分で決められる!神か!そんなこんなでなんとも発音しずらい名前のなんちゃら企画という派遣会社にお世話になるのでした。

Theライン工場で働く

朝の6時近江八幡駅に集合しそこに専用の送迎バスが迎えに来た。そこには他の従業員の方も沢山乗っていた。そこから車で30分ほどするといよいよ働く工場が見えてきた。敷地内は半端なくでかく第5工場まであったと思う。敷地内には寮があってそこから通っている人もいた。

仕事場に着いたらまず事務所に行き説明を受けて制服に着替えることにした。制服は毎日貸し出しで更衣室に並べられている。帽子に上下別の作業着に手袋まではめた。髪の毛など不純物が混ざらないように厳重な装備だ。ただ衛生面がなんとも言えずこれは毎回洗っているのだよね?と疑問を感じる。だが信じるしかなかった。これに関しては怖くて最後まで聞けずに終わった。

僕の他に何人か新人さんがいて一緒に会社の規約の説明やルールのビデオなどを見て一通り始めの儀式的な物は終わった。いよいよ初日の仕事開始だ。

会社はプラスチックの容器を製造する工場で僕が派遣されるのはその梱包を担当する下請けの会社だった。コロナでも生活用品の売り上げはさほど変わらず影響なく忙しいみたいだ。工場の中にはスーパーでよく見かける商品の容器が沢山ベルトコンベアに乗って流れてきていた。

もちろん僕らは機械をいじれる訳もなくそこには工場の社員さんと下請けの派遣とはっきり分けられている感じだ。

僕らの仕事は基本、空のダンボール箱をセットして流れてくるダンボール箱をただひたすら梱包して流すという単純作業。なんの仕事をしているの?と聞かれるときっとこう答える。なんとも寂しい回答である。

しかしどんな仕事でも楽な仕事という物はない。単純作業すぎて辛いということもある。僕が与えられた作業の中では流しこみというよくわからない作業があって、ベルトコンベアに乗って流れてくる容器をただひたすら眺めてゴミや変形があれば抜くという作業があったのだか、あまりにも時間が進まないので時計が壊れているのではないかと錯覚するぐらいだった。立っているだけというのはこんなにも辛い物なのか・・・。これらを朝の7時から夜の19時まで行う。合計12時間の労働だ。

仕事の初日はからのダンボールの内側に袋を被せてセットするのにてこずった。ダンボール箱の下の隙間から空気を吸わせて袋をピターッとさせるのだが、あんばいが意外と難しく苦戦した。焦るとダンボールの角で袋が破けたりしてしまうので注意が必要だった。機会は故障か危険なことがない限り止まらないので、早くセットしてダンボールの箱を流さないと次から次と容器が入ったダンボールが流れてきて大変なことになる。

機会はダンボールの箱がセットされていななくても流れてくる容器を入れ始めるので、床にポタポタと容器が散乱し始める。まさにヘルプといった感じだ。幸運なことに僕は優しいおっちゃんに丁寧に教えてもらえたのでなんとかできるようにはなった。これは本当に運が良かった。

2、3日もたてば慣れてきて余裕が出てきた。なんとか(こいつ使えない認定)はされずに済みそうだった。そうなると次の試練が出てきて掛け持ちという奴をやらされる。基本一つの商品の容器は1レーンづつ流れており、それが第9レーンくらいまである。容器が流れる速さが究極に早いのもあれば遅いのもあるので、うまく人を配置しながら人がすくなければ掛け持ちをしなければならない。

最初は1レーンだけでも大変だったが動きに無駄がなくなってくると2レーンさらには3レーンと可能になってくる。まさに自分も機械になった気分だ。だんだんできるようになってくると顔も名前も覚えられて、(あっこいつはここだな)と一番ハードなポジションに割り当てられるようになった。

ハードポジションになると休憩になるか機械が止まるまではフルマックスで動き続けなければ回らない。これはしんどかった。それからずっとそんなポジションに割り当てられるようになってしまった。嬉しいのやら悲しいのやらである。当然時給は変わらない。
しかし久々のガチガチの労働で休日のありがたみを噛みしめ、仕事帰りにみる町の夕日はいつもより綺麗に見えて深く目に焼き付いた。

派遣工場で働く人達の現実

健康な体であれば誰でも働ける仕事だけあってここには様々な人がっやてくる。若い人からご年配の方まで男女問わずいる。派遣の中でも常に出勤しているレギュラーと呼ばれる人達と入れ替えが激しい新人やたまにしかこない人達で仕事は回っている。

僕が聞いた人の中では最長7年の人がいた。いやもっと長い人もきっと沢山いるだろう。しかしこの派遣の仕事はその場しのぎの小銭を稼ぐには良いかも知れないが、ここに甘んじてどっぷり浸かってしまうと未来がないと感じた。

朝の5時には起きて準備をして6時には家を出る。7時から〜19時まで働いて、帰ってきてご飯を食べたりお風呂に入ったりしているとあっという間に時間がなくなってしまう。これでは何か新しいことを学ぶ時間が圧倒的に少ない。

10年後にはプラスチックを全く使わない世界になってるかも知れない。このコロナの到来で秒速で変化を求められる時代に変わった。明日はどうなるかわからない。

いつも新しいことに挑戦し何かインプットし続けないとその船が沈没した時に一緒に沈没してしまう。それかまた同じような沈む船に乗るという選択肢しかなくなる。この仕事にやりがいや学びを見出せなければただ時間を売ってお金をもらっているだけになってしまう。もっと自分の時間の価値を大切にしたい。

そう思いながら進まない時計と戦っている自分がいた。メンタルは相当やられている。しかしいつも仕事帰りに見る夕焼けで赤く染まる鉄塔や線路を見るたびに目が奪われて心は癒されていくのだった。

工場編 後半に続く 父