この記事は沖縄の離島西表島でアクティビティーツアーショップの経営をしながら双子の子育てに奮闘する家族の記録を残した物です。西表島に移住を考えている方や、子育てに悩みを抱えている方、病気の子供を支える親御さん達に何かヒントになるような情報を提供できたらと思い書いています。
今回はミナトが緊急ヘリで搬送された時の話です。

滋賀の医大から大阪母子医療センターへ

生まれてから二ヶ月近くNICU、GCUへてようやく退院する事ができたミナトでしたが、たまたま検査で病院に行った時に明らかに呼吸の状態が悪く、エコーで検査をしてみると重度の肺高血圧状態である事がわかりました。

その日から緊急入院になり、妻と交代で付き添いをすることになりました。コロナの関係で兄のカイトは病院に連れて行くことはできません。

ミナトの場合特に目立った心臓の疾患や肺の疾患がなく肺高血圧の症状になる原因が特定できずCTを取ったり血液検査をしたり18トミソリーを疑ったりしましたが全く原因がわからず、手の施し用もなくどんどん悪化していくミナトを見守ることしかできませんでした。

サチレーションの値はどんどん悪くなり、呼吸の値がひどい時には80を切る時もありました。特に寝ている時に呼吸が悪くなるので夜中はひっきりなしに看護師さんが来てハイフローの酸素の値を調整して呼吸を安定させていました。

恐らくものすごい酸素の量を流していたのだと思います。

先生からは(泣かすと呼吸がしんどくなるからできるだけ泣かさないように)と言われましたが、これはかなり精神的にもしんどく、最後の方はミルクが欲しく泣いているのか、辛くて泣いているのか訳がわからず、ミナトをあやすのに必死の思いでした。

入院して10日ほどがたち、ただ酸素の値を強くして酸素を流すことしかできず治療する方法もなく症状は悪化するばかりで、考えたくもない最悪なことも考えはじめ僕も嫁も不安と苛立ちがピークに達し始めていました。

今の病院ではこれ以上踏み込んだ検査もできず、できたとしてもその先の治療が困難だと言うことで大阪母子医療センターへの転院が決まりました。

忘れもしない2021年2月2日

2月2日いよいよ状態が酷くなり大阪母子医療センターへと緊急搬送されることになりました。人口呼吸器も鼻フローから直接肺に酸素を送る挿管になりました。

ミナトが病棟を出て搬送するため一度ストレッチャーでICUへと運ばれる時の光景は今でも忘れられません。目からは自然に涙がこぼれ落ち、もうこのまま会えなくなるのではないかと思うくらい不安な気持ちでいっぱいでした。

滋賀の医大から大阪の母子医療センターまでは緊急を要するのでヘリで搬送することになり僕らは車で大阪へと向かいました。

この日は妻との結婚記念日。忘れることのできない1日になりました。

大阪母子医療センターへに続く。